「すみません、『元気』どこにありますか?」
「そこになければないですね」
2024年、早くも1ヶ月が終わりを告げた。
そんな中、1月はショックなニュースばかりで私はわりと打撃を受けた気がする。
テレビは見ないようにしているのだが、ふとスマホをいじってしまい、そこでXを開き、自ら疲弊の海へ飛び込んだりする。
トレンドを見ないようにしているのだけど『おすすめ』というタブがあり、ついなんとなくそこを見てしまう。
あそこは自分のイイネに連動されているらしいと聞いたのだが、本当か?というくらい雑多な情報が溢れている。
見なければいい。それだけでいいのに、見てしまい、ため息をついたりする。
スマホを手放せ馬鹿野郎〜!と思うが、どうにも空いた時間をこの虚無に費やしてしまうのだ。
多分TikTok、YouTube shortなんかにも似たような虚無が広がっているような気がする。
日々ぼんやりと過ごし、無駄な細々とした時間を消費し、なんとなく疲れを溜め込む。
元気とは一体どこにあるのだろう。
出す、ということは、私の中に元から装備されているものなのだろうか。
でも普段から意識して「自分、今めっちゃ元気です!」と生きたことなんて、ない。
三十年以上私は元気を出したことがないのかもしれない。
明確にわかるのは『悲しい時』や『落ち込んでいる時』だ。
ぼんやりとした虚無時間とは違い、これらは明確に『ある』のである。
『今元気だ』と実感することはほぼないが、『自分のメンタルがやられている』という時は実感があるのだ。涙が勝手に流れたりね。
つまり『元気』であるということは『意識せずとも普通に日常をおくれる』ということ。
SNSで勝手にメンタルを疲弊しつつも、私はわりと『元気』な人だったのである。
『元気を出す』ということは、『通常の状態ではないのに無理やり元気を出そうとしている』ということなのだ。
ならきっと、出さなくていいのではないだろうか。
冒頭の会話のように、そこになければ、無いのだ。
頑張らなくていいし、無理もしなくていい。
気持ちを盛り上げようとしなくていい。
『元気のない自分』の状態を見つめ、受け入れればいい。
そうして自分の元気の無さを見つめたら、ある日、朝起きた後の一杯の水を美味しいと感じるかもしれない。
天気が良ければ気持ちいいなと思って、散歩に行ったりするかもしれない。
散歩に出掛けて、可愛い犬とすれ違うかもしれない。
歩いてて、美味しいパン屋さんとか見つけるかもしれない。
そうやって、普通に日常を送る時、自分はきっと元気が出ている。
『元気を出す方法』を見つけなくていい生活。
そういう日々を大事にして、今日ものんべんだらりと生きている。